大阪地方裁判所 昭和40年(ワ)4109号 判決
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〔判決理由〕四 示談契約
(一) 被告主張の示談契約のうち、条項1・2・3の合意が成立したことがまず認められる。乙第一号証(示談書)中の原告の住所氏名を原告本人が自ら手書したものであることは、後記の挙示証拠により充分認められるのみか本件訴訟における原告本人尋問の際の宣誓書の原告署名との対照より明白である。そして被告主張の示談条項1・2・3のような負担および補償を当時原告が被告に希望していたことは、右示談書作成の日である昭和三七年九月二二日に先だつこと四日の同月一八日に、原告が供述調書作成の際警察官に対し同旨の希望を述べていることよりも裏付けられる。
(二)(1) 右示談書による示談契約の条項4(項以下放棄条項という)は、前出1ないし3が「契約条件」なる不動文字の下の空欄にペン書きされているのに比し、はじめから印刷されている不動文字によるものである。
(2) しかし交通事故による損害賠償に関する示談契約は次のごとききわだつた特色をもつ。すなわち
(イ) まずその本質において、その締結前に当事者間に紛争があるがゆえにこれを解決するというためのものではなく、その後に争われるであろう損害の数額について紛争を避けるという目的でなされるものである。
(ロ) また当事者の意図においても、訴訟や強制執行という法律や司法組織を利用するという本来のあるべき筋道を放棄し、その示談により当該事件に終止符を打ち費用や時間ならびに心理的不安定を免れようという自治規範の設定を目論むものである。
(ハ) 交通事故による損害賠償においては、その被侵害利益の外延の把握が困難なうえ、法律専門家でさえ認定に高度の熟練と経験を要する双方の過失割分の斟酌を経てはじめて賠償請求権の範囲が劃されるものであり、したがつて手形金や貸金等と異つて、請求権自体が流動的かつ主観的傾向を必然的に内包するものである。
(3) 原告は、本件受傷をうけ直ちに東成病院に入院し、治療費等は被告より支払つてもらつていたものであり、傷害状況を親身になつて案じ医師にたずねてくれる身寄りも持合せなかつたこともあつて、昭和三七年九月二二日当時、原告は右受傷も単なるすり傷でただ頭が痛いぐらいに考えていたにすぎず、事故運転手角谷がしきりに病院まで見舞にきてくれることに感激して、同運転手の処分も望まないという心境にあり、同月一八日警察官に対しても「出来ることなら休んでいる間の日当を一寸払つて貰いたいが相手にいつていいものかどうか考えている」と述べていることからも酌みとれるように、二二日時点においては損害賠償につき素朴かつ遠慮がちの意向を持つていたにとどまる。
(4) 前に示した示談の本質および機能、右認定の原告の自己の傷害に対する認識度および損害賠償についての意向、ならびに示談交渉をした本人たる原告の心情においても一定の金額の賠償をうけるというある意味での満足感は遂にそれ以上を貰えないという諦め感と裏腹をなしていることより、放棄条項が不動文字であり、かつ原告が右文字を読まなかつたとしても、それを単なる例文とはみなしえず、また原告に効果意思が不存在であつたとはいえない。
(三) すると被告主張の示談契約は成立したものといわざるをえない。
五 示談契約の効力の有無
(一) 原告の傷害程度および治療経過は前示認定のとおりであり、前出後遺障害は受傷後四年余を経過するもなお継続しかつその治療も原告の経済力不足および医療保護によつてまかなわれていることより将来十全のものを期待できず、頭部外傷後遺症の治療が現在の医学においても極めて難しいものであること経験則上明かであることも加わつて、原告の後遺障害が将来において全治するとの保証はまつたくない。
(二)(1) 示談当時、原告は、本件受傷がすり傷程度で、なんらかの原因で頭が痛いくらいに考え、まもなく治療して退院できるというがごとき漠たる認識を有していたにとどまる。だからこそ原告は、下駄を事故で失くしたから買つて欲しいとか、アパート代二、五〇〇円を立替えて欲しいというごとき身辺些小事を要求して核心たる慰藉料や逸失利益賠償の額の取極めはごく安易に妥協している。そして客観的な自己の傷害の部位程度、加療期間、後遺症発生可能性、後遺障害の加療方法持続期間は一切顧慮していない。そして右各種情況を顧慮しないというのは、原告自身の性格および境遇ならびに小学六年卒で字もほとんど読めないという主として知能的素因による判断力思考力の至らなさによるものであり、平均人を標準とすれば当然表象および予見が可能であつたものである。
(2) 他方示談にあたつた被告会社事故係松原篤男も、原告は頭を少し打つたにすぎないが大事をとつて入院させているにすぎないと病院側よりきき、医師よりもこのままで行けば順調にすむとの説明をうけ、かつ原告本人も苦痛を訴えず顔色もよかつたという外部事情から、原告の傷害程度をごく軽微にみなし、後遺障害の可能性についても心配していない。しかし病院や医師は、治療の完了する前には、一応の形式的質問に対しては前記のごとき返答をするのは常であり(その傷の容態は前出認定のごとき脳内出血異常反射があり絶対安静でこれはもとより医師に自明のことであるが)、また加害者側それも企業上の損失を最少限ときには零に喰い止める役割を課されその行動方針として中正妥当という理念は無視され相手方実力関係との対比において駆引を要請される事故係としてみれば、前記のごとき病院の説明は、被害者との交渉に際しこれを援用しても利益にこそなれ不利となるものではなく、医師に対しより具体的かつ細微にわたる症状予見を質するのは不得策のことであり、右無用の挙に出ないことは当然であつた。すると被告代理人たる事故係松原としても、原告の傷害程度について近く全治退院可能で入院加療をさして必要ではなかつたと示談当時認識していたものである。いや正確には右以上の認識は可能であつたのに、意識的に右以上の認識に至ることを避けた結果前記軽微な認識に自らとどまつたというべきである。
(三) 以上(一)(二)のごとき双方の一致した認識内容たるごく軽症とのことを前提として、原告の慰藉料は僅か五、〇〇〇円、入院一日につき三五〇円の休業補償、治療費は被告負担、右以外を請求しないとの示談が締結されたものである。なお慰藉料五、〇〇〇円というのは当事者が認識したところによる原告の傷害を基準にしても非常識な低額であるが、これは原告の身寄りのなさ、療養費もない入院中という原告の窮境、ならびに原告の知慮浅薄に乗じられた結果にほかならない。
(四) しかし本件示談契約は、原告の傷害が軽微なものであると双方誤信し、この点につき争うことなく軽傷を前提として締結されたものであるのに、真実は前出(一)のごとくその傷害程度は重大でありしたがつて原告の示談の意思表示にはその最重要な部分に錯誤があつたものといいうる。よつて本件示談契約は要素の錯誤により無効といわざるをえない。(今枝 孟)